他人に「かわいそう」という言葉を平気で使う人をわたしは信用していない。
この世の中でいちばん嫌いな言葉かもしれない。
最近はあまり日常で頻繁に使う人を見かけなくなった気がするけれど、
無意識にやたらと「かわいそう」発言をするのは、すこし年配の人に多い傾向だと思う。

そもそも「かわいそう」って言われて嬉しい人なんているの?
…と思っているというか、むしろ嫌な気持ちになる人の方が多いんじゃないかと思うのだよね。
今でいうところのマウンティングみたいなもんかもしれない。
なぜ他人に向かって平然と言えるのだろうと、ずっと不思議に思っていた。
かわいそうという言葉がもつ残酷さ

よちよち歩きの赤ちゃんや幼児が道端で転んで

「あらあら、かわいそうに〜」
なんて場面が昔はよくあった気がする。
痛い目にあった→かわいそう、という発想なのはわかる。
ただ、かわいそうという言葉の中には
「哀れみの眼差し」が含まれている。と思っている。
わたし含めて周りの人と比較して、あなたはついていないですね、と言い放つ。
転んで痛いのもそうだ。
「わたし」は転んでもいなければ痛くもないのに、あなたは今まさに痛くてつらい思いをしているのだから、「わたし」よりかわいそうという発想だ。
「わたし」が当たり前に持っていたり、普通に成し遂げられることを、かたや持っていなかったり、困難を極めている人に対して、
「かわいそうにね」

そう思うのは、どこか見下してやいないか?
かわいそうと言いながら見下している、わたしのがまだマシだと優越感を抱く…そんな残酷な言葉だと思うわけです。
また自分の親や学校の先生などが、子どもに向かって、

○○ちゃんは、お母さんがいなくてかわいそうだから優しくしてあげようね。
というようなことを普通に言っていた記憶がある。
それを聞いた子どもは素直に

そうか…かわいそうなんだ、優しくしてあげなくちゃ
と刷り込まれていく。
○○ちゃんにしてみたら、かわいそうだから遊んであげるとか、優しくしてくれていると知ったら、ちょっと切ないはず。

そんなつもりで言ったんじゃないし、かわいそうってなにげなく使っただけだから…

発言した側の気持ちなんてどーでもええわw
そう、問題は受け取った側の気持ちが大事なのである。
どんなに悪気がなくても、深く考えないで口をついたのだとしても、かわいそうと言われた子どもはそれなりに傷つく。
わたし自身も、両親を早く亡くしたことで、それを知った人からは当然のように「かわいそうに、苦労したのね」的なことを言われるのがイヤすぎて、学生時代はずっと家族構成を隠していた。

正直、反応に困るのだよねw
かわいそうと言われた人は本当にかわいそうな存在なのか

他人から見て、とても苦労をしているように見える人がいるとして
わかりやすい例えでいうと
- 貧乏でお金がない生活をしているとか
- ひとり親家庭で育ったとか
- 子どもが欲しいけど恵まれないとか
- 配偶者や子どもを亡くしたとか
たしかに苦労をしたり、つらい状況に陥ったり、傷ついたり悲しんだり…ということは当の本人にとってたくさんあっただろうし、想像にかたくない。
しかし、自分自身がつらさを感じることと、まったくの他人から「かわいそうに」と不幸のレッテルを貼られることには雲泥の差がある。
他人からの「かわいそう」という言葉かけは、「あなたのつらさをわたしも理解しているよ」ではなくて「あなたはわたしより不幸なんだね」っていう宣言と同じだからだ。
周りのみんなより貧乏だとか、親や子どもがいないだとか、そんなどうしようもない事実を人生の欠陥のように哀れむ。
「あなたは不幸でかわいそうだね」と言われた側は、どう感じるだろう。
もし、自分が不幸だなんて思っていなければ、「なんであなたにそんなこと言われなきゃならないの?」と思うだろうし、本気でつらさのどん底にいるような精神状態の人だったなら、「他人から見てもそうなんだ…」と余計に落ち込むだけでしかない。

この台詞を吐く意味とはいったいなんだろうか?
かわいそう発言をする本人は気がついていない事実

「普通の人よりなにか足りない人は不幸=かわいそう」
そう思っている人は、見たくれの充実が幸せのバロメーターだと信じているのだと思う。
例えるならば、両親が揃ってて、お金もそこそこある家庭で育ち、五体満足で健康で、結婚したら子宝にも恵まれて、離婚や死別なんて想像もせず、もちろん経済的にも何不自由ない暮らし…
まるでサザエさんやちびまる子ちゃんのような、世間一般的と言われるような家庭環境や人生ならば幸せってことだろうか。
もちろんそんな絵に描いたような人生なんてくだらない!幸せじゃない!と否定したいわけではなくて、それはそれでいいんだけど、
そこから外れてしまうと幸せじゃなくなるのか?という話。
見たくれの充実が幸せの判断材料だと信じている人にとっては、何かひとつでも普通より足りないと、その人は「かわいそう」な存在になり得る。
実際にその人自身が自分の置かれた環境をどう感じているのかは、本人にしかわからないし、他人が判断したり、とやかくいうことでもない。
それなのに、表面的な目に見える物理的なものだけをもって、本人の意思は無視して、「かわいそうに」と言い放ってしまう。
一般的な物差しでしか幸せを感じたことがないから、目には見えない幸せの存在に気づかないのだろうか?
心で感じる幸せがわからないのと同じで、かわいそうと言われた側の気持ちなど想像できないのだろうか…と個人的には思ってしまう。
なんなら、「他人をかわいそうだと慮ることができるわたしって優しい」とすら思っている可能性すらある。

そうじゃなきゃ、いちいち口に出して言う意味がわかんない。
他人を気遣える自分に酔っている節がある気がするなぁ。
かわいそうと言いながら突然勇気づけられる人たち

ここでちょっぴり昔話。
以前働いていた職場で、両腕欠損の障害を持っている人と一緒に仕事をしたことがある。
とはいえ、日常生活もすべて足で器用になんでもこなしていて、仕事もパソコンを足で操作できるので、支援が必要なわけでもなかった。
物の置く場所を考えるとか通常想定できる範囲の配慮は、背の低い人が届かない場所にあるものを代わりに取るのと同じレベルなので、特別な気遣いはほぼ不要だったといっていいと思う。
ただ、その職場は窓口業務がメインだったので、それが免除になったくらいかな。
来客の人は比較的高齢の方が多い業務だったので、時々「机に足を上げてるなんてけしからん!」とクレームをつけられることがあったものの、
事情を話すと「それは気づかなくて…申し訳なかった」と謝罪されたり、すぐに状況を理解してくれた。
そんなある日のこと。
たまたまわたしが窓口対応をしていた、すこし年配のご婦人が手続きを終えると、後方で仕事をしているその同僚を指さして、こう言った。

両腕がなくてかわいそうなのに…あんな風に足で仕事をするなんて偉いわね、頑張ってるわ

…そうですね(棒)

わたしなんて両腕がちゃんとあって恵まれてるんだから、もっと頑張らないとね

……(無言)

頑張ってる姿に感動したわ、あの人にも頑張ってねと伝えてね(涙目)

あぁ、はい…
ご婦人は満足気に、言いたいことを言い散らして帰っていった…が、
んなもん絶対言えるわけないだろーが!!
同僚が直接いわれたのではない(聞こえてなかった)のがまだ救いで、面と向かって吐かしてたら耐えきれずに反論してたに違いない←火がつきやすいタイプw
やたら感動するのは「頑張る姿を理解している」アピール

同僚にとっては、ただただ普段と同じように仕事をしていただけだ。
べつに、誰かを感動させるために両腕欠損というハンデを背負っているわけでもなければ、その姿を見てもらって同情を乞いたいわけでも、もちろんない。
見ている側が勝手に「頑張ってるストーリー」を脳内で組み立て、勝手に感動しただけの話なのだが…いやもちろん彼が頑張っていないといいたいわけじゃないんだよ。
普通に生活しているだけなのに、踏み込まれたくない領域に勝手に上がり込んできて、「障害があっても頑張って乗り越えてる素晴らしい姿」を期待する人がいるのだ。
先述のご婦人には申し訳ないが、彼女はたまたま見かけた障がい者である同僚の姿を見て、彼の抱えている困難や苦悩に思いを馳せて、我が事のように心を痛めたわけではない。
まったくのアカの他人の不幸を目にして、自分はまだマシだ、恵まれているという優越感を無意識に抱いた結果、彼のことを自分よりも劣っているかわいそうな存在だと認定したのだ。
だからこそ、「頑張ってて偉いわね〜」なんて上から目線の言葉が平然と言えるのだろう。
自分よりも苦労している(不幸な)存在を認識して、それに比べたら自分はぜんぜん幸せだ、良かったという心の余裕が現れた発言であり、彼のことを哀れに思い見下しているとしか思えない。
このご婦人のようなタイプは、一見、社会的弱者に理解がある風を装う。
社会的弱者に対して、「周りよりも何かしら満たされていなかったり、恵まれていなくて可哀想なのに、それに負けず頑張ってるよね、えらいよね」と自分は理解のあるとても優しい人のように振る舞う。
本音は自分の方が恵まれている、もっと恵まれていない人がいるという安堵感がそんな言動をさせているという事実には気がついていないか、もしくは、そんな心の内を周りには悟られたくなくて、「恵まれない人たち」のことも気遣える心の持ち主であるアピールをする。
だから必要以上に感動する。
ただそこで普通に生活しているだけで、「頑張って生きているだけで素晴らしい」と感動したがるのだ。
メディアによる感動ポルノの存在

五体不満足という本の著書である、ご自身が両手足欠損のハンデを抱えている乙武洋匡さんをご存知の方も多いと思う。
彼があるテレビ番組で、義足をつけて車椅子ではなく自分自身で地面を踏みしめるために長い期間をかけてトレーニングをする…というチャレンジをされていた。
それ自体は、ご本人がやりたいと望んだことだろうし、テレビ番組がそれをバックアップすることはいいとして(きっかけが番組のオファーだったかどうかは知らないが)
問題はそのVTRを観ていたとある毒舌で有名なベテラン女優である。
VTRが終わり、スタジオに画面が移ると彼女は激しく号泣していた。
乙武さんが自身のハンデやつらさに負けず頑張る姿に感動したのだと、あれこれコメントしていた。
もちろん、乙武さんは頑張っていた。痛みにも耐えて最終的には短い距離だが歩くことが出来ていたし、相当なトレーニングを詰んだのだと思う。
乙武さんが歩けたことを喜ぶのならまだ理解ができるんだ。
でもハンデがあるのにこんなに頑張ってるなんて素晴らしい的な感動で泣くというのは…なんだか違和感しかなかった。
スタジオに居た乙武さん本人も、そのベテラン女優の反応を喜んでいるようには見えなかった。(個人的主観も混じっているかもしれないが)
べつに感動を与えたかったわけでも、泣いて欲しかったわけでもないと思うんだ。
申し訳ないが、逆境乗り越え系に大袈裟すぎるほど感動する人は、やっぱりなんか自分よりも恵まれない哀れな存在だと心のどこかで思っている気がして…失礼じゃないかと思うんだよ。
それ以外でも、例えば難病を克服した系もそうだが、「ハンデを背負っているのに健気に頑張る姿」に感動したがる人が一定数いるんだけれど、

結局はすべて他人事なんだよね。
かわいそうに…と思う気持ちは、どこか知らない国で飢餓に苦しむ子どもに向ける眼差しと大差はなくて、自分には直接関係がないから無責任に感動できる。
感動したがりさんは、自分よりも恵まれず可哀想な環境でありながら努力をしている姿をとても歓迎する。
それは裏を返せば、「周りに感動を与えられるように頑張ってこそ!」という無言の圧力にもなる。
頑張っていない人はいつまでも可哀想で劣っている存在というレッテルを貼り続ける。
「逆境に負けず頑張ることが誰かの希望になれるし、生きている価値がある」と存在価値まで決めつけようとしたり、役割や使命感までもを押し付けてしまう人もいるのだから、本人にとっては迷惑極まりない。
某24時間テレビによって愛は地球を救えたのか

24時間テレビが最もたる例だろう。障がいや難病を抱えながらも頑張る姿を放送して同情を誘うあの番組だ。
「どんな困難を抱えていても、ハンデがあっても頑張っている姿は美しい」と言わんばかりに、頑張ることを強要する。頑張ることこそ感動をうむんだと、さらに苦難を乗り越えさせようとする。
個人的にはべつに寄付や募金が嫌いなわけじゃないんだけれど。

募金も寄付もとても有効な手段だと思うけど、なぜいちいち感動ストーリーに仕立て上げるのか不思議でならないんだ。
誰がそんな美談を欲しているのかといえば、先述のご婦人のように人の不幸を自身の優越感や安堵感に置き換えたい人じゃないかと思う。
ここ数年、あの番組をまともに見ていないのだけれど、どこかの障がい者施設や養護学級に押しかけて、楽器の練習や演奏をさせたりするのを見たことがある。
そんなことをさせてなんの意味があるのかわからないと思った、正直。
マスメディアに取り上げられることでちょっとでも現状を知って欲しいと思う人や、ぶっちゃけ出演することで金銭的な何かがあるのなら、そういう制作意図が本意ではなくても出演する人がいることを責める気持ちにはまったくなれない。
本気で障がいを持つ方々や難病を抱えている人に役立つような支援をしたいと思っているのなら…だけど、
例えば車椅子のための段差をなくすバリアフリーの施設にしたいとか、こんな病気の人がリハビリする施設だからこんな施設整備ができればもっと治療が捗るとか、そういった生の声(要望)を訴えて、そこに募金や寄付を募って支援した方が有意義だと思うんだよね。
当人たちが抱えるリアルな現実問題、でも周りの人が気づいていないことを訴えて解消する方が、感動仕立てな楽器の演奏を見せられるよりもはるかに建設的じゃないのかな。
クラウドファンディングに近い発想だけど、寄付や募金の使い道がはっきりする方が支援へのハードルも下がりやすいのではないだろうか。
あるひとつの施設や学校、病院に支援が偏るのは良くないという考えだったとしても、あるひとつの施設に芸能人が押しかけて、クローズアップする時点ですでに公平性などあったもんかどうか疑わしい。
すこし横道に逸れたけれど、結局は番組側が思う「可哀想な人たち」を見世物にして、募金や寄付を募り、その番組を見ることで優越感に浸るいい人ぶった人を増やそうとするというのは嘆かわしい事実だ。
実際に募金や寄付が何かの役に立っていたとしても、それを集める「手段」としては、番組制作者の発想は、サーカスか猿まわしの発想と変わりないと思うんだよ。

あの番組を見ても「かわいそうだから寄付してあげよう」なんて、投げ銭の発想を支持してるとしか思えないから、おかしなことになるんじゃないか?
昭和の頃は、そういった「かわいそう」発言を乱発する人種も多かったし、まだまだ人権への意識やモラルが低かったので、あんな番組が作られる背景もあったのかもしれない。
しかし、もう時代は令和なのだ。
「恵まれない人に愛の手を」みたいな格差を助長する発想ではなく、多種多様な人たちが不自由なく、いろんなライフスタイルに対応できるための環境整備にふったらいいのに…と思ってしまう。
みんな「なんかおかしい」と気づく人が増えているのに、まだ無意識に「かわいそう」を美談化するような人達が番組制作をしているのかもしれない。